2012年03月17日
いま荒波にどう舵をきる
今日は前々から気になっていたKFCのチキンフィレダブルを食べようとわざわざ和駅前へ行ったら、つい最近なくなりましたと言われましたorz
さて、前回、南海フェリーのことについて書きましたが、今日はその続編ということで、南海フェリーを語るうえで欠いてはならない出来事について触れようと思います。
1956年に開業した和歌山-小松島航路、乗客初年19万人、船を2隻体制にした翌年は30万人と順調な滑り出しを見せ、順風満帆かに見えた1958年1月28日。
徳島港を予定通り出港した南海丸が、航海中救難信号を発信した後に消息を絶ちました。
巡視船が捜索するも見つからず、2日後、海底40mに沈む南海丸が発見されます。しかし乗客乗員167名にただ1人として助かった人はいませんでした。

和歌山-徳島間は瀬戸内などの穏やかな内海海運とは違い、太平洋を航行する外洋海運に当たります。
それ相応の厳しい気象、海洋条件がつきつけられるわけですね。
生存者がいないため、正確な事故原因は明らかになっていませんが、新造間もない船自身には欠陥が見られなかったため、発達した低気圧による横風と高波による転覆ではないかと言われています。
その後、航路は欠航し、外洋の厳しい条件にも耐えられるよう船を改修し、再スタートをきっています。
そして、現在に至るまで大きな事故はなく、いまでこそ乗客の低迷にピーピー言っていますが、最盛期、カーフェリー3隻、2時間おき12便体制にまで成長を遂げました。
この事故の教訓を忘れまいと、いまでも毎年事故の日になると社長以下社員が高野山にある慰霊碑を訪れ、現場付近の海上に献花が行われているそうです。
明日、乗船するというのに縁起でもない話ですみませんが、こうした事故の犠牲者の上にいまの安全性が成り立っているということです。
たとえ一級の船で船員がやる気をもっていようと、判断を間違えば渡れる海も渡れなくなるということです。
順風満帆に見えたかの先の顛末。そして再起から迎えた最盛期・・・
そんな出来事も偲びながら、いま荒波にどう舵を切るか考えてみてはいかがでしょうか。
さて、前回、南海フェリーのことについて書きましたが、今日はその続編ということで、南海フェリーを語るうえで欠いてはならない出来事について触れようと思います。
1956年に開業した和歌山-小松島航路、乗客初年19万人、船を2隻体制にした翌年は30万人と順調な滑り出しを見せ、順風満帆かに見えた1958年1月28日。
徳島港を予定通り出港した南海丸が、航海中救難信号を発信した後に消息を絶ちました。
巡視船が捜索するも見つからず、2日後、海底40mに沈む南海丸が発見されます。しかし乗客乗員167名にただ1人として助かった人はいませんでした。

和歌山-徳島間は瀬戸内などの穏やかな内海海運とは違い、太平洋を航行する外洋海運に当たります。
それ相応の厳しい気象、海洋条件がつきつけられるわけですね。
生存者がいないため、正確な事故原因は明らかになっていませんが、新造間もない船自身には欠陥が見られなかったため、発達した低気圧による横風と高波による転覆ではないかと言われています。
その後、航路は欠航し、外洋の厳しい条件にも耐えられるよう船を改修し、再スタートをきっています。
そして、現在に至るまで大きな事故はなく、いまでこそ乗客の低迷にピーピー言っていますが、最盛期、カーフェリー3隻、2時間おき12便体制にまで成長を遂げました。
この事故の教訓を忘れまいと、いまでも毎年事故の日になると社長以下社員が高野山にある慰霊碑を訪れ、現場付近の海上に献花が行われているそうです。
明日、乗船するというのに縁起でもない話ですみませんが、こうした事故の犠牲者の上にいまの安全性が成り立っているということです。
たとえ一級の船で船員がやる気をもっていようと、判断を間違えば渡れる海も渡れなくなるということです。
順風満帆に見えたかの先の顛末。そして再起から迎えた最盛期・・・
そんな出来事も偲びながら、いま荒波にどう舵を切るか考えてみてはいかがでしょうか。
Posted by みまさか ゆうか at
19:54
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